yukiyanagi’s blog

ほとけにハッとしてグゥの音も出ず

日本の仏教 ~我が実家の場合~

実家の父は今年80歳になる。
終戦を8歳で迎えた父は、空襲にも遭っているし、焼夷弾が家のお風呂場に落ちたこともあるし、飛行機からの機関砲が飛び交う中、下校したこともある。

みずからの戦争体験を父の口から直接聞くとき、大抵はわたしのほうから「実際どうだったの?教えてくれる?」と訊ねる。子どもとして、聞いておきたいからだ。

先日も電話でその話になった。

「・・・お父さんも、いろんな思いがあったでしょう?」

父は少しの間無言になり、明るい声で言った。

「じゃけどね、ワシには『入り込める時間』があるけえ、ありがたいんよ」

入り込める時間?

「そう。ウチは毎月お坊さんに来てもろうとるじゃろ?」
「うん。おじいちゃんとおばあちゃんの月命日ね」
「お坊さんにお経をあげてもろうて、お説教を聞いて…その時に自分の中に入り込んで、いろんな思いを受け取ってもらうんよ。昔のこととか…」
「受け取ってもらう?」
「そう。自分の思いをね」
「自分の思いを受け取ってもらう…それが『入り込める時間』?」
「そうよ。そういう時間を持てるんは、ほんま、ありがたいことよ」

その後父は、実家にお経をあげに来てくださっているお坊さんのこと、お説教の内容などを、穏やかな口調で楽しそうに話してくれた。

「日本の仏教は葬式仏教に成り下がっている」そうした批判をよく耳するけれど、

少なくとも我が実家では「日々の中で受け止めきれない思い」をさりげなく受け取ってくれる場として、日本の仏教がちゃんと機能してくれている。

浄土真宗なので、禅宗のように坐禅修行もないし、上座部のように瞑想指導や実践を行うことも一切ないけれど、

父の中では、毎日お仏壇にお線香をあげて「なんまんだぶ」を少しの間心の中で唱える時間が、

そして、月に一度お坊さんをお迎えして「入り込める時間」を過ごすことが、

日々の…長い道のりを歩んできた人生のささやかな救いとなっているのだろう。

「最近はお母さんも、経本を読むようになったんよ。内容はサッパリみたいじゃけどな」

父のからかうような笑い声が、なぜだかとてもうれしかった。

「同じことですがね」

Webで出逢ったblogなどを通じてハッとすることがあれば、その箇所を大抵コピペしてメモっておくタチなのですが、

メモるのを忘れてはしまったものの、忘れようにも忘れられない、今でもハッキリと思い出せる文章がいくつかあります。

そのうちのひとつ。

どのサイトだったかもすっかり失念してしまったのですが、おそらく、とある「雲水さん」の修行回想録だったかと。

その方はもともとご実家がお寺だったのか何だったのか、とにかくご本人の意に反し参禅修行せねばならぬ状況になり、あまり気のすすまぬまま、福井県にある古刹の禅宗専門僧堂へ上山します。

堂頭老師との初接見にて。
どうしてこの寺に来たのか訊ねられた「雲水さん」は、気乗りのしない様子でこう言い放ちます。

「家で炬燵にあたりながらテレビなんかをダラダラ見てるよりは、坐禅でもしたほうがちょっとはいいだろうと思いましてね」

すると堂頭老師はこのように仰います。

「同じことですがね」

この言葉に「雲水さん」がハッと目を覚まし、以降参禅修行に邁進された・・・のかどうかはまったくおぼえていないのですが、

その後長らく、わたしにとって堂頭老師の「同じことですがね」が、心に引っかかりまくる「現成公案」となってくれたのは言うまでもありません。

「家で炬燵にあたりながらテレビをダラ見するのと坐禅が・・・同じ・・・じゃねえよ!だったら坐禅しなくてもテレビ見てればいいんじゃん」

そのような「心の引っかかり」が思い出されるたび、実際に堂頭老師とお目にかかったことのある己の脳内に、あの言葉が「ご老師のナマのお声」で即座に響き返るのでした。

「同じことですがね」

と。

そして今になって心底思うのは・・・

「家で炬燵にあたりながらテレビなんかをダラダラ見てるよりは、坐禅でもしたほうがちょっとはいいだろうと思いましてね」

そう堂頭老師に言い放つことのできる度胸は、わたしにはカケラもない、ということです。

「雲水さん」まじスゲエ。

禅への回帰。

なんと1年近くぶりの更新となります。
自分でもびっくりするほどの「放置プレイ」です。

仏道実践をすすめていく中で、書きたいこと、書けることが
まるで泡ぶくのようにどんどん消えていってしまいます。

書こうと思っても、それはもう終わっていることゆえ、
なんだかとても「遠く」に感じてしまうのです。

が、それだといつまで経っても更新できない。
(実践)状況が1年前とは随分と変化してきておりますので
そのあたりを自分用の記録がてら簡単に。

昨年9月に「禅への回帰」が起こり、
現在お二方のご老師に指導していただいております。

もともと仏教と出逢ったきっかけが「禅」。
当時は、さるご老師の元へ通わせていただいておりました。

仏教&禅ビギナーのわたしをご老師はあたかかくも厳しく迎えてくださいました。
が、数年後ご老師がお倒れになり、通うことが叶わなくなってしまった。

「これからどうしたものか」と迷うこと数年。
禅会や摂心へ伺うこともできず、というか伺う気も起こらず・・・

そんなとき、
宮下先生とプラユキさんとのご縁をいただきました。
おふたりは、わたしが仏教と再会する機会を設けてくださった。
宮下先生から教えていただいた「身体とコミュニケーションすることの大切さ」、
プラユキさんからご指導いただいた「チャルーンサティ」は今でも宝物です。

そしてTwitter でご縁をいただいている方々。
みなさんのtweet に(自発的に)背中を押され、
現在お世話になっているご老師の禅会へ伺うことができました。

自分では「もう戻ることはないかもしれない」と半ば諦めていた
「禅への回帰」。よもや1年後に自分がこうなっているとは、
1年前には思ってもみませんでした。

今はとにかく、坐っています。
時間があってもなくても、坐る。

一方で。

「実践は坐っているときだけとは限らない」
このことを身をもって実感してもいます。

自分で「実践は坐っているときだけとは限らない」と
目標を立てたり言い聞かせたりするまでもなく、
坐れば坐るほど、
坐っていないときも「おのずと」そのようになる。

1年前の自分がそうであったように・・・
これからどこへ向かおうとしているのか、まったくわかりません。
わかりませんが、実践を続けていった先に何があるのか、見てみたい。

そのような思いで、やっぱり今日も坐っています。

・・・あ、今は坐っておりません。書いています。
(わざわざ言わんでもよかたい)

苦行。

録音された自分の声を聴くのって、いくつになってもほんっと慣れない。
子どもの頃、ラジカセ(!)で録音した自分の声に「ウソだろ」と思った体験は
きっとわたしだけのものではあるまい。機器がラジカセだったかどうかは別にして。

随分と昔フリーライターをしていた頃、
インタビュー後の「文字起こし作業」がとにかく苦痛でしかたがなく。
がしかし、録音したインタビュー内容を聴かないことには記事が書けぬので、
無理やり聴き続けるしかなく。

自分の「ウソだろ声」がヘッドホンから漏れ出るたびに
声にこそ出さねど、こころの中では「あうあうあう」「あーうー」と悶絶しっぱなし。
まるで苦行のごとく感じられたものです。

昔話はさておき、今まさに、苦行の真っ只中にいる。

タイで出家された日本人僧侶プラユキ・ナラテボーさんに
個人面談をしていただいた際、あくまで自分の復習用にと
(プラユキさんにちゃんとおことわりして)
面談の内容をくまなく録音できたところまではよかった。
それはもう、間違いなくよかった。

問題はその後。
録音内容を聴くたびに「あうあうあう」「あーうー」と悶絶しっぱなし。
おのれの「ウソだろ声」を聴くの、いっこうに慣れねぇ・・・。

そういえば、と思い出す。
これも随分前の話ですが、ご高齢の禅友さんから
1本のカセットテープをいただいたことがありました。

テープには、井上義衍(ぎえん)老師の元へ参禅されている
定年後とおぼしきおじさまと
当のご老師との「やりとり」がたっぷりと録音されていました。

テープの中で、おじさまがおっしゃっていたこと。

「こないだ録音させていただいたご老師のお話、
 あたしがバカなことばっかり訊いてるもんですからねぇ、
 自分の(発言箇所)は消してしまったんですよ」

動機は違えど、ほぼほぼおじさまとおんなじ心境ではないかと。
自分の声だけどうにか消せないものか。あうあう、あーうー。

ちなみにおじさま曰くの「バカなことばっかり訊いてる」その内容ですが
むしろご老師にまっすぐ喰らいつかれているところがわたしは好き。
(そしてご老師はどんなに喰らいつかれても懇切丁寧にお応えなさる)

「雑念がどうしても消えない」とおじさまがしつこく訊いてくれたおかげで

「雑念がなくなったらつまらんでしょう」
「使ってもみんうちから雑念を邪魔にするからいかんのです」
「なくすんじゃないんですよ。解脱なんですよ」

という、ご老師の「珠玉の言葉たち」に
こうして自分は出逢わせてもらうことができたんですもん。

・・・そういう意味では、
おのれの「あうあう、あーうー」な「ウソだろ声」があるからこそ、
プラユキさんの「珠玉の言葉たち」にやはりこうして出逢えているのだとも言える。

ブッダさんは「(身体をいじめる)苦行はいらんよ」とおっしゃっているようですが、
この「ウソだろ苦行」はしばらく続けていくしかなさそうです。

瞑想の先生

あるとき目にした一文です。
ご著書を愛読させていただいている魚川祐司さんtweet

 
我が身を振り返ってみると、
「瞑想あるいは坐禅の手ほどきをぜひお願いしたい」
と素直に感じ、実際に継続してお世話になった先生方を思い浮かべるにつけ、

魚川さんのおっしゃる
「(瞑想を教えている先生を見て)自分はこういうふうになりたいのか」
という問いかけを「おのずと」行っていたことにあらためて気づかされます。

「この方にぜひお願いしたい」の前段階、
「お願いしたいかも」と感じた時点で、もし可能であれば
その方に実際に会いに行ってみるのが自分にとっての常。

何度か足を運ぶうちに「なにかが違う」と感じれば、
自然と足が遠のいてしまうこともあります。

「なにかが違う」と感じる主な要因は、
メソッドの内容が自分に合う合わないということではなく
非常に個人的な「センサー」が感じ取る、
その方の佇まいから滲み出る「この世界に対する慈しみのようなもの」のあるなし
なのかもしれません。

その方から発せられる言葉がたとえ厳しいものであっても、
「慈しみ」って消えないものだもの。
その逆もある。言葉がどんなに優しい類のものであっても、
「慈しみ」が感じられないことだってある。

そうした参照点が果たして正しいのかそうではないのかは
自分でもわかりかねますし(そもそもあくまで個人的なセンサーなんだし)、
たとえどんな状況であっても「慈しみ」を湛えられる人になりたいという
自分自身の無茶な願望がそう思わせているだけなのかもしれない。

それでもやっぱり、(そんなに多くはないけれど)
これまでお世話になった&今現在お世話になっている先生のことを
思い浮かべるだけで、なにやら満たされた気持ちになるのです。
「その先生にお願いしている理由」って、
(わたし個人に関して言えば)実はこれだけで充分なのかも。

今現在「実際に」お目にかかりながらご指導いただいている先生はおふたり。

おひとりは、タイで出家された日本人僧侶プラユキ・ナラテボーさん。
先日も個人面談で「苦(四聖諦)」についてガッツリご指導いただきました。
(現在来日されています!)


そしてもうおひとりは、このblog でも何度か書かせていただいている
瞑想教室の先生。ベトナム出身の禅僧ティク・ナット・ハンさんと
とてもご縁の深い、宮下直樹さんです。


(先生に掲載をご快諾いただきましたので遠慮なく)
宮下先生の瞑想教室はこちらです。もちろんわたしも毎回必ず参加しています。
教室の先輩方も、どこまでも穏やかであったかい。
どんなに仕事が忙しくても行くのであります。行きたくなるのであります。


現役の神主さんであり、禅修行者であり、野口体操の先生であり、
テーラワーダ仏教の瞑想実践を現地の僧院で深められ、
ティク・ナット・ハンさんによって設立されたリトリートセンター
「プラムヴィレッジ」関連の活動においても
重要な役割を何度も担われている宮下先生のお話と瞑想指導は、

幾多の「枠組み」を自在に行き来されているお立場ならではの
「目が覚めるような視点」を毎回とても自然な形でもたらしてくれます。

教室の会場が「カトリック教会の集会所」というのも
なんとも宮下先生っぽいのであります。

【教室会場の敷地内にて。夜桜と聖母子像】f:id:lovebuddha:20160412014346j:plain


ちなみに、プラユキ・ナラテボーさんとの出逢いを
お膳立てしてくださったのも宮下先生なのです。


プラユキさんも宮下先生も・・・おふたりとも笑顔がほんとうに「大きい」。
「芸能人は歯が命」みたいなニッカニカした笑顔ではなくて、
酸いも甘いも苦しみも悲しみも痛みも味わい尽くしている方だからこその、
慈しみにあふれる笑顔。

笑顔というよりは「ほほえみ」のほうがしっくりくるかもしれない。
「そういう人に、わたしもなりたい」
と、おふたりとご一緒させていただくたびに思うのであります。

といいつつ。
プラユキさんとはまだ、たった3回しかお目にかかっていないのです。
あ、宮下先生ともまだ半年のおつきあいだった・・・。

お世話になっていた禅のご老師が病に倒れられて以来数年間、
「この方にぜひ!」と心底思える先生に出逢えなかった分、
ここへ来て確変のごとく、よきご縁に恵まれているのかもしれません。

ああどうか、
このまま確変が終わりませんように。←「苦」にハマる典型的な例である。

呼吸は「酸素ボンベ」

隔週で瞑想教室へ通っています。
「教室」といっても座学はほぼなし。ノート&ペンも持参しません。

身体の感覚&声に耳を傾けるボディワークと瞑想実践、
そして先生の体験をベースに語られる、瞑想にまつわる豊かなお話。
やわらかくも濃密な時間。いつも「あっ」という間に過ぎてしまいます。


以下、前回の教室より帰宅後、速攻でメモ代わりに記した内容。
先生がシェアしてくださったお話の抜粋です。

(メモ)

瞑想は酸素ボンベ。
深い悲しみの最中にいる人に寄り添うには、瞑想が必要。

深い悲しみは、文字通り、深い海の底にいるよう。
悲しみが、心の底にまで到達している。

深い悲しみに見舞われたとき。
息苦しくなる。息が止まる。呼吸ができなくなる感覚。

その状態でうずくまっている人がいるのなら・・・
まず自分が、呼吸できていることに気づく。

息を吸って、吸っていることに気づいている。
息を吐いて、吐いていることに気づいている。

アーナパーナサティ・スッタ。
呼吸の瞑想は、酸素ボンベになってくれる。

酸素が行き届かない(ように見える)、
悲しみの底でうずくまっている人のところまで行ける。

悲しみの底で手をとり、そのまま寄り添ってあげられる。
そうして・・・底から引き上げることができる。

(メモおわり)


こんな光景(イメージ)が、メモから立ち上がってきました。

海面付近で「助けて!」と叫んでいる人に気がついたら、
それがもし岸から近いところであれば、
浮輪などを咄嗟に投げ入れることができる。

海の底に沈んでうずくまっている人は、
助けを求めることができない。海の中から地上へは、声は届かない。

たとえその人の存在に気がついたとしても、浮輪は役に立たない。
地上から大声で投げかけられる「こうしてみたら?」「こうすると浮上できるよ」
という数々のアドバイスもやはりその人の元へは届かないし、
なによりその人のこころに「響かない」。

そんなときは・・・自分の呼吸に気づく。
吸っていることに気づいている、吐いていることに気づいている。
そうして、海の底でうずくまっている人のところへ赴く。

呼吸の瞑想が、いつの間にか「酸素ボンベ」になってくれている。

酸素ボンベになってくれるからといって、
悲しみに暮れるその人の辛さが自分のほうへは来ない、
辛いのはその人であって自分は悲しくないしへっちゃらだ、
ということではない。

むしろ酸素ボンベがあるからこそ、
その他の装備は「まるごし」のまま、行くことができる。

「まるごし」だからこそ、
その人の悲しみや辛さに、ダイレクトに触れることができる。

ダイレクトに「触れさせてもらう」ことができる。

潜水服を着たままでは、その人に直接触れることはできない。
悲しみにくれる人は、悲しみに見舞われたときの無防備な状態のまま
海の底にいるのだから。

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・・・そんな光景(イメージ)が立ち上がってくると、
やはりというか必然といいますか、

ティク・ナット・ハンさんのお姿を思い浮かべずには
いられなかったのでした。


ところで・・・件の瞑想教室は、ほんとうに少人数。
すばらしい「場」なのにどうしてこんなに参加者が少ないのか、
以前から不思議でしょうがなくて。

「ちゃんと見つけてくれる人がいるから(いいんですよ)」

先生はそうおっしゃって、微笑まれるばかりなのでした。

奇跡

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確か内田樹さんがおっしゃっていたのだと思いますが、

日本は海外(外国語)で出版された「各分野の代表的な本」を
「この国の言葉=日本語」で読むことのできる、
世界でも稀に見る恵まれた環境にあるのだとか。

タイ語パーリ語が一切わからぬ自分が
こうして日本語に翻訳された本を手に取ることができるのは、

あたりまえのことなんかじゃぜんぜんなく
ものすごくありがたいことなのだとつくづく思う。

いや、「奇跡」とすら言えるのかもしれない。

「奇跡」的な現象の背後には必ず、数多のご縁が存在している。
翻訳や編集、出版、販売に携わっておられる、
直接お会いしたことのないたくさんの方たちの知恵と経験、
そして労力があってのこと。

「知恵」「経験」「労力」。
文字にするとたった一行で済んでしまう。
けれども、その一行の「重み」は計り知れない。

このことに思いを馳せながら、
ゆっくりとですがページをめくっている今日この頃です。

・・・Walking Meditation のように、
ほんとーうにゆっくりと、ですが。