yukiyanagi’s blog

ほとけにハッとしてグゥの音も出ず

わたしが見ていたのは・・・

日本で生まれ育ったので当然といえば当然ですが、
わたしにとって「身近な仏教」といえば・・・

実家の浄土真宗、大人になってからお世話になった禅宗をはじめ、
いわゆる「大乗」にカテゴライズされるものでありました。

特に禅宗は、定期的に専門僧堂へ伺っていたこともあり、
今でもその「ご縁」をとても大切に思っています。
婚家が禅宗だと聞いたときも、うれしかったものなぁ。

日本の仏教ではありませんが(同じく「大乗」の)
チベット仏教に親しんでいた頃もありました。

振り返ってみると・・・
わたしが「見ていた」のは「ブッダさん」ではなく、
あくまで「日本の仏教」であり「その宗派の開祖や名僧」
だったのだろうなぁと、今になって思います。

「日本の仏教」「その宗派の開祖や名僧」を通して
「ブッダさん」に多少なりとも触れさせてもらっていた、
といえなくもないのですが、

じゃあ「ブッダさん」をしっかり「見ていた」かと問われれば、
おそらく違っていたのだと思う。

どちらかというと

白隠さんすっげぇ! 」「いや親鸞さんもなかなか」
「そういえば、ブッダさんも・・・・いたよね」

という感覚だったと思います。

そのことに気づいたのは
テーラワーダ」系の仏教書に目を通しはじめた頃。

最初に触れたのは「眼光鋭い眼鏡姿の長老さん」のご著書。
母語ではないことも影響しているのだと思いますが)
お説きになっている語調があまりにワイルドに思われ、
わたしには刺激が強すぎたのか、そのうち読まなくなってしまいました。

その後も禅宗の僧侶のかたとの対談本を通して
長老さんと再会する機会が何度かありましたが、
ますますワイルドになっておられる印象を受け、後ずさりするばかり・・・

でしたが、

わたしが「見ていた」のは「ブッダさん」ではないのだな

そう気づかせてくださったのは、ほかでもない長老さんだったのでした。

その後も「後ずさり」は無くなっておりませんが、
長老さんがこの「ヘタレな仏教徒」に気づきをもたらしてくださったのは
間違いないと、
こころから思うのであります。

プラユキさんとの出逢い。

タイで出家された日本人僧侶プラユキ・ナラテボーさんから
先日「チャルーン・サティ(手動瞑想)」をご指導いただく機会にめぐまれました。

実はそれまで、プラユキさんの(お名前は存じておりましたが)
ご著書に目を通したことはなく「前知識」が一切ない状態でした。

いわば「チミ、あまりに不勉強すぎ!」と怒られても仕方のない状況だったのです。
そんな状況ゆえ、プラユキさんのお話を聞いているときもはじめは

「さーて、忙しい中ここに来てはみたけれど(ほんとうに仕事が忙しかった…)、
 この人は一体何を教えてくれるというのだ?」

つまり「わたしよ、ナニサマだ?」的心境だったのですが(性格わりぃ)、

お話がすすむにつれておのずとペンを取り、じゃんじゃかメモをとりまくり、
いつの間にか「耳ダンボ」でお話を聞いている自分がそこにいたのでした。

この日教えていただいた「チャルーン・サティ(手動瞑想)」は、
今ではすっかり自分にとっての「たからもの」となりました。

実践すればするほど
「気づき」がいつでも傍にいてくれることを実感できるようになってきている。

ほんとうに・・・
あの日プラユキさんとの出逢いの場に「引っ張ってくれた」知人に、
あの場を創ってくださったご関係者のみなさまに、感謝の気持ちでいっぱいです。

つけ加えるならば・・・
この人は一体何を教えてくれるというのだ?」と大上段に構えていた
あの日のナニサマな自分のオツムをピコピコハンマーで
ボカッとやってやりたいところです。

(一発といわず何発でも!!)

受け入れる。

明日の仕事のことが頭をよぎり、ちょっと内側がザワザワする。
そんなとき、自分にできることは

ザワザワから離れようとするのでもなく
ザワザワをなくそうとするのでもなく

ザワザワを紛らわせようとするのでもなく
ザワザワに乗っ取られるのでもなく

「ザワザワを受け入れよう」と頭で考えるのでもなく
「ザワザワを受け入れるのよ」と自分に言い聞かせるのでもない。

そもそも「受け入れる」って、どういうことなのだろう?
長年ずうっとそう思い続けてきた。

「受け入れる」ということがどういうことなのかよくわかりもしないのに
「受け入れよう、受け入れよう」としてきていた。

自分で「受け入れている」と思うこと自体、実はずいぶんな「後付け作業」で、
すでにもう「受け入れている」し「受け入れられている」のだなぁ・・・

・・・と、理解できていても、できていなくても
すでにもう「受け入れている」し「受け入れられている」のだなぁ・・・

・・・と、自分で納得したフリをするのでもない。

内側のザワザワがあってはまずい。はじまらない。
そんな思いから、あれこれと対策を練り、実行し、そして失敗してきた。

そりゃもう散々に。

ということは・・・
「内側のザワザワがあってはまずい」という考え自体が、
間違っているのではないか。

内側のザワザワ」は、こうして現に、ある。存在しているように感じられる。
すなわち「内側のザワザワ」は、ある意味「すでに受け入れられている」。
だからこそ、
こうして自在に感じ取ることができているのではないか。

すでに受け入れられているものをなんとかしようとするから
ややこしいことになるのだなぁ。

般若心経

般若心経。
たった262文字だか276文字だかの、コンパクトなお経。

ソラで唱えられたら・・・なにやら「ありがたい」感じがするし、
実家の仏壇で手を合わせながら唱えることだって可能になるし、
「自分、わかってる風」でカッコイイではないか。

なんとヨコシマな動機よ。。。特に「わかってる風」ってヤツ。
レッドカード。一発退場です。

とはいえ、ヨコシマな動機は、人を動かす。
受験生時代の暗記作戦よろしく、必死で憶えにかかるわたくし。

スウェーデン王国の誰がどんな治世をしていたのか、
 なぜ自分はこんなにも憶えこもうとしているのだろう?」

という素朴な疑問をひっさげつつ世界史の暗記に苦しんでいた
当時の記憶がよみがえります。

そうこうしているうちに、
あっという間に般若心経をソラで言えるようになっていたのですから、
ヨコシマな動機ってやつは、つくづくすごい。

いや、たった262文字だか276文字だかなんですけどね。。。

以上、かれこれ10年以上前の話であり、
毎日般若心経を唱える習慣もその後特にないのですが、
今でもソラで口にすることは可能。

スウェーデン王国の誰がどんな治世をしていたのかは
すっかり抜け落ちてしまっておりますが。


ちなみに・・・ちょっと気を抜くと、

「究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 
 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 心無罣礙
 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏・・・


こんな風に、いつの間にやらループ状態になっていることも
しばしばであることを、ここに告白します。
依般若波羅蜜多故」が2回出てくるところがミソです。

せっかく憶えた般若心経ですが、
実家の仏壇前で披露(?)する機会が一切ないであろうことに
気づいたのは、ずいぶん後になってから。

浄土真宗では、般若心経は唱えない。
憶える前からすでにレッドカードをくらっていたのでした。チーン。

はじめまして。

念子と申します。
blog 用の名前を考えに考え抜いてみた結果、
なんとも面白みの薄い「念子」にしか行き着けなかった、
無念の念子でございます。

普段は「世を忍ぶ仮の姿」で過ごしておりますゆえ、

「実は仏教が好き」
「好きを通り越してたぶんライフワーク化している」
「自宅には仏教書がワンサカ」
「でもって仏教系の瞑想会にも参加」
「それだけでは飽き足らず、禅寺へ参禅しては
 『なんかわたし、ちゃんと仏教、やれてるわぁ♪』という、
 勘違いも甚だしいふざけた恍惚感に酔いしれる黒歴史あり」

などなどの事実は、家族の者しか知りません。

宗教が絡む話題というのは、独特の「繊細さ」を持つというか、
「清く正しく美しく」的な香りを放つといいますか、
別に説教されているわけでもないのに説教されている気持ちになりやすいというか、
こちらの「清くもなく正しくもなく美しくもない様」を浮き彫りにさせられる
というか・・・

まぁとにかく、なかなかにデリケートで気を使う類のものでございます。

その一方で、これまでの仏教体験の中で
とんでもなく面白かったこと、とんでもなく役に立ったこと、
現在も役に立ち続けていることなども、
たくさん受け取らせていただけているのも事実。


そうした事実を記録できればとの思いからこのblogを立ち上げた次第です。
そんなわけですので、ここではあくまで個人的な「仏教体験」を記させていただければと思っています。

「ただ記録するだけで満足ならば、blogを公開する必要、ないじゃん」

そう思われたそこのアナタ。鋭い。

「もしかしたら、あくまでイチ一般人の目線で記録された内容が、
 お顔も知らぬどなたかに、仏教の面白さを感じ取っていただける機会に
 ならなくもないかもしれないはずがないかもしれない」

というスケベ心も当然あることを、ここに告白します。

どうしても少々おちゃらけた文章になってしまうのは、
生来の気質ゆえ、つまりは「そういう人なのだな。しゃーねーなー」
と思っていただければ幸いに存じます。

4年に1度の「閏日」にblog開設という、なんだか幻のような「流れ」に押されて
いつの間にかblogが更新されぬまま放置、なんてことにならぬよう、
あるいは「邪魔にせず相手にせず」の実践をしているのだ、などという
フザけた御託で己を誤魔化すことのないよう、精進してまいる所存です。

ああ、どうなることやら。(不安)
そんなときこそ瞑想だ、不安を材料にするのだ、と言われれば確かにそのとおり。

みなさま、どうぞよろしくお願いいたします。


念子