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yukiyanagi’s blog

ほとけにハッとしてグゥの音も出ず

待ち伏せ?

実家の両親は、よく、地元産のお野菜を宅配便で届けてくれます。
荷物の中に、浄土真宗系の小冊子が入っていることもしばしば。

実家では月に一度、お坊さんがお経をあげに来てくださいます。
その際にいただく小冊子を(帰省時に)好んで熟読するのは、
子どもたちの中でわたしだけ。それを知ってのことだと思います。

届いたばかりの小冊子をパラパラめくっていると、
「日めくりカレンダー」の紹介ページが目にとまり・・・

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このちいさな、とてもちいさなことばに、
こころが震えました。

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「花から始まる花はない」

種を蒔かないと花は咲かない。
種があっても、蒔かれなければ、花が咲くことはない。

やっぱりこれでいいんだ。このまま種蒔きを続けていこう。
楽しみながら、種蒔きをしていこう。

そうあらためて思ったのが昨日のこと。

そして今日。
西新宿の高層ビルエリアで、昨日のお花と「再会」しました。

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あたたかい陽射しを浴びて、輝くたんぽぽ。

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「花から始まる花はない」

きっとたんぽぽは、忘れっぽいわたしのために、
このことをわざわざ教えにきてくれたのでしょう。

・・・なーんて言うと、年甲斐もなくメルヘン過ぎますが・・・
それでもほっこりとうれしい。ありがとう、Walking Dandelion。

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・・・いや、あるいは・・・
もしかして「待ち伏せ」していたのか?

わかったつもりで実は何もわかっとらんボンクラ仏教徒へ向けて、
「仏道包囲網」絶賛発動中なのやもしれません。

なんだか、孫悟空みたいな気分になってきました・・・。

湧き上がるものへの「信頼」

タイで出家された日本人僧侶プラユキ・ナラテボーさんに
初めてお目にかかることのできた先日。

このときいただいた神資料、じゃなくて「紙資料」を
パラパラと見返していたら・・・

ある箇所で、脳天をガツンとやられました。

「信(信頼力)」

(1)自己信頼
(2)湧き上がる感覚・感情・思考などへの信頼

 
湧き上がる感覚・感情・思考などが
たとえどのような類のものであっても・・・

ひどくネガティブなものであっても、
悲惨なものであっても、

それらがたった今ここに湧き上がってきていることを「信頼する」。
「信頼する」=「信じて、頼りにすること」。

【こちらは紙資料ではなくプラユキさん最新のご著書。2巡目突入です】
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頭ではわかったつもりでいても
習慣とはしつこいもので、

湧き上がってくる感覚・感情・思考などに対し、
賛同したり否定したりする自分がいて
いつの間にか大きな顔をしていることがある。

そういった意味において、
わたしは自分に湧き上がる感覚・感情・思考などを
まったく信頼できていない。

ほんとうに、まったく・・・。

頼りにするどころか、
「こんなものが湧き上がってくるはずがない」
と、はじめから疑いにかかっている。

そのことすらも、
「信じて、頼りにする」・・・なのだろうなぁ。


「脳天ガツン」が妙に心地いいのは、
このことがきっと真実だからなのでしょう。

まさに「神資料」です。




・・・・仏教なんですが。

瞑想は「種蒔き」

朝、twitter につぶやきを投稿しているとき、
ふと手が動いて打ち込まれた言葉。

「気づき」の種蒔き。

自分で打ち込んでおきながら「なるほど」と思う。

瞑想中、何かが自分にとってよきかたちで
たった今、この瞬間にガラッと変わってくれることを
いつの間にか求めていることがある。

その挙句、たった今、この瞬間に何も変わってはいないことに
静かにガッカリしていることもある。

それって・・・

種を蒔いた直後に
「おい、なんでまだ花が咲いてないんだよ」
とクレームぶっこいてるのとおんなじじゃないか。

種を蒔いてもすぐに花は咲かない。
けれども、日々の中で瞑想を続けていると、
イザというときに芽が出てくれる。

「なんだ、まだこれっぽっちしか育っていないのか」

そうボヤいてもいい。それでも日々瞑想を続けていると、
やはりイザというとき
小さな芽が花開くまでに成長したことを体感できる瞬間に
遭遇することだってある。

イザというときというのは大抵、こころが混乱しているときだ。

日々の瞑想を通して「気づき」の種蒔きが行われていると、
おのずと視界がサァーッと開けて、混乱状態をほどいてくれる。

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わたしのこころは、よく混乱する。
だから「気づき」の種蒔きを日々せっせと行う。

種蒔き=瞑想中、何かが自分にとってよきかたちで
たった今、この瞬間にガラッと変わってくれることを
いつの間にか求めていることは、今でもよくある。

そんなときは、その思いが自分の中にあることにただうなずきながら、
種蒔きを続ける。

たった今、この瞬間に何も変わってはいないことに
静かにガッカリしていることだって、今でもよくある。

そんなときも、その思いが自分の中にあることにただうなずきながら、
種蒔きを続ける。

昨日も、今日も、きっと明日も、明後日も、その先の日々も。
種を蒔くだけなら、わたしにもできるからだ。

そして思う。

未来の結果を待たなくとも、
種蒔きをすることで、実はすでに救われているのだなぁと。

自分にそう言い聞かせる必要の一切ないところで。

痛みを材料に・・・

数日前から、前歯茎あたりに、鈍い、じんじんくる痛みを感じています。
虫歯はないし、思い当たるフシも特になく。

生活する分にはノープロブレムなのでそのままにしていますが、
気にならないといったら嘘になる。

この痛みを、瞑想の材料にできないか?

痛みに寄り添ってみる。
痛みを抱きしめてみる。
痛みをただ感じ切ってみる。
痛みを詳細かつ繊細に感じてみる。

「痛みがある」と心の中で言語化してみる。
「痛み」と心の中で言語化してみる。

・・・どうも、何かが激しく間違っている気がする。
「瞑想の材料」云々はさておき、

ここはさっさと歯科医院へ行くのがよかろう。

歯科医院へ行くのがなんとなくためらわれる、
その事実自体を瞑想の材料にするとしましょう。

・・・材料にしないといけないですか?(T ^ T) 

(単に歯医者嫌いなだけである)

ボスキャラ

禅宗の専門僧堂にて「接心」に初めて参加したときのこと。
斎座(昼食)にトマトが出ました。

うぉう。。。

子どもの頃から何度もトライしてみては撃沈せざるをえなかった
永遠のボスキャラ。よりによってこのタイミングでのご登場とは。。。

ここは禅寺。出してくださったものを残すことは一切できぬ。
食事の前に唱える「五観の偈」もうわの空。
合掌越しにボスキャラがチラチラ見えます。

絶体絶命のピンチ。

がしかし、こたえはとっくに出ている。

食すしかない。

ちょっとずつ食べるとツラさ倍増かもと判断し、
一気にボスキャラを頬張りました。

うっげーーーーー!!
まっずーーーーーーーーー・・・・

・・・・くない。

むしろ、おいしくね・・・・?

トマト・・・おいしいんじゃん!!

さっきまでボスキャラ呼ばわりしていた自分はどこへやら。
トマトのあまりの美味しさに「テンションだだ上がり」。

この感動を隣席の禅友さんにシェアしたくなりましたが、
ここは禅寺。食事中は私語厳禁。
だだ上がりのテンションをぐっとこらえたまま、
トマトの滋味を静かに堪能するしかなかったのでした。

その日以来、トマトはボスキャラではなくなり、
もりもり食べられるようになりました。
これもきっと、仏の御加護なのかもしれません。違うかもしれません。

「禅寺へ行って、よかったことは?」と訊かれたら、
それこそたくさんの「よきこと」が思い浮かぶのですが、

「トマトを食べられるようになったこと」だけは
なんだか憚られるというか、問いかけのテイストを壊しそうな気がして、
我が胸の奥に秘めている次第。

たかがトマト、されどトマト。
人生、一寸先はわからんものです。

パートタイムブッダ

ベトナム出身の禅僧ティク・ナット・ハンさん経由で知った言葉
「パートタイムブッダ」。

いきなり「フルタイムブッダ」を目指すのもいいけれど、
まずは「パートタイムブッダ」からはじめてみる。

1日のうち、無理なくできるところから、瞑想に親しんでみる。

「フルタイムブッダ」を目指してしまうと、
ぜんぜんフルタイムじゃない自分のことがイヤになってしまう場合も
多いのではないかと思う。

かといって「パートタイムブッダ」からはじめてみても
「パートタイム」すらできていない自分のことがイヤになってしまう場合も
個人的にはよくありました。

今なら「自分のことがイヤになってしまう」そのこと自体が、
瞑想に最適な材料となってくれるのだとわかりますが、

当時は一切わからず、
果ては「この瞑想メソッド、イマイチなんじゃないか?」
と手法のせいにして別のやり方に手を出す、ということもよくありました。

まさに無明どっぷり。_| ̄|○・゚・

ですが、その奥に横たわっていた
「この苦しみに、適切に対処できるようになりたい」
「適切に対処できるようになる、その方法を知り、実践していきたい」
という思いは、当時も今もおんなじ。

だからでしょうか。
無明どっぷりだったあの頃の自分が、けなげに思えて仕方がありません。
方向音痴なりに一生懸命、目的地を探して彷徨っていたものなぁ。

じゃあ今は「無明どっぷり」じゃないのかと言われると、それは違う。
今でもどっぷりです。光明カモーン!です。

もし以前と違うところがあるとすれば、
「無明どっぷり」であることにチョットは気づけるようになったことでしょうか。

以前はまったく気づいていなかった。そもそも無明の状態が、
自分とはあまり関係のないものだと考えていたのだと思います。

つまり自分が無明の状態にあるという実感がなかった。
まったくピンと来ていなかったのであります。

お酒に激しく酔っている人ほど
「だいじょおーぶ! 酔っぱらってなんかいなーいもおーーん!」
と、おのれの酩酊状態に無自覚になってしまうのと似ているのかもしれません。

そうか。
無明が「酔っぱらい」なのだとすると、
光明は「酔いから醒める」を指すのかもしれません。

酩酊状態を脱するのはうれしいことなのですが・・・
どうか「二日酔い」になりませんように。

ウォーキングメディテーション(歩行瞑想)

2週間に一度「マインドフルネス瞑想」の教室に通っています。

「気づき(気づくこと・気づいている状態)」と訳されることの多い
マインドフルネス(Mindfulness)。
ベトナム出身の禅僧ティク・ナット・ハンさんによって
欧米で広く知られるようになった言葉・・・のはず。

教室の先生は、国内のみならず世界各地を自在に飛び回っておられ、
「マインドフルネス瞑想」にもガッツリ通じていらっしゃいます。

先日の教室では
「ウォーキングメディテーション(歩行瞑想)」を教えていただきました。

「ウォーキングメディテーション」。
これまでも実践していましたが、今回のはスペシャルバージョン。

みんなでgatha(偈≒詩のようなもの)を歌いながら、一歩ずつ
ゆっくりと歩いていきます。

(なんでも、ティク・ナット・ハンさんによって設立されたリトリートセンター
 「プラムヴィレッジ」で実際に行われているやり方なのだとか)

~gatha~

I have arrived
I am home
In the here and in the now
I am solid
I am free
In the ultimate I dwell

gathaのメロディーはとてもやわらかく、ゆったりとした響き。
ですが内容は、断固とした決意を感じさせる、まっすぐな思いで
満ち溢れています。

歩みをすすめる際も、
ただ漫然と、なんとなく、みんながやっているから
gatha を口ずさんで一歩・・・みたく無意識的な状態で行うのではなく、

ほんとうに「I have arrived」と実感しながら一歩、
こころから「I am home」と思いながら一歩、
「In the here」という「只今
の事実」を味わいながら一歩・・・

そんな風に、意識的な状態で実践していきます。

ですので、もし「I am solid」と実感できないのであれば、
自分でしっかりそう実感できるまで一歩を踏み出さない。

裏を返せば、この瞬間の
自分の正直な気持ちに気づける機会ともいえるのかもしれません。

おぼえたてのgathaのメロディーを口ずさみながら
ゆっくり、ゆったり一歩を踏み出しているうちに、
自分の思いを束ねている「箍(たが)」のようなものが
どんどんほどけていくのがわかりました。

いや、正しくは、
そのときはじめて「箍(たが)」のようなものの存在に気づけたのだと思います。

gatha とともに、歩く。
その一歩一歩がとても大切な行為に思われ、
教室が終わって最寄り駅に向かう際も、おのずと
ゆっくりゆったり、やわらかな足どりになっていたのでした。

もちろん、こころの中ではgatha のメロディーが
やさしく響いていました。