yukiyanagi’s blog

ほとけにハッとしてグゥの音も出ず

瞑想は「種蒔き」

朝、twitter につぶやきを投稿しているとき、
ふと手が動いて打ち込まれた言葉。

「気づき」の種蒔き。

自分で打ち込んでおきながら「なるほど」と思う。

瞑想中、何かが自分にとってよきかたちで
たった今、この瞬間にガラッと変わってくれることを
いつの間にか求めていることがある。

その挙句、たった今、この瞬間に何も変わってはいないことに
静かにガッカリしていることもある。

それって・・・

種を蒔いた直後に
「おい、なんでまだ花が咲いてないんだよ」
とクレームぶっこいてるのとおんなじじゃないか。

種を蒔いてもすぐに花は咲かない。
けれども、日々の中で瞑想を続けていると、
イザというときに芽が出てくれる。

「なんだ、まだこれっぽっちしか育っていないのか」

そうボヤいてもいい。それでも日々瞑想を続けていると、
やはりイザというとき
小さな芽が花開くまでに成長したことを体感できる瞬間に
遭遇することだってある。

イザというときというのは大抵、こころが混乱しているときだ。

日々の瞑想を通して「気づき」の種蒔きが行われていると、
おのずと視界がサァーッと開けて、混乱状態をほどいてくれる。

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わたしのこころは、よく混乱する。
だから「気づき」の種蒔きを日々せっせと行う。

種蒔き=瞑想中、何かが自分にとってよきかたちで
たった今、この瞬間にガラッと変わってくれることを
いつの間にか求めていることは、今でもよくある。

そんなときは、その思いが自分の中にあることにただうなずきながら、
種蒔きを続ける。

たった今、この瞬間に何も変わってはいないことに
静かにガッカリしていることだって、今でもよくある。

そんなときも、その思いが自分の中にあることにただうなずきながら、
種蒔きを続ける。

昨日も、今日も、きっと明日も、明後日も、その先の日々も。
種を蒔くだけなら、わたしにもできるからだ。

そして思う。

未来の結果を待たなくとも、
種蒔きをすることで、実はすでに救われているのだなぁと。

自分にそう言い聞かせる必要の一切ないところで。