yukiyanagi’s blog

ほとけにハッとしてグゥの音も出ず

呼吸は「酸素ボンベ」

隔週で瞑想教室へ通っています。
「教室」といっても座学はほぼなし。ノート&ペンも持参しません。

身体の感覚&声に耳を傾けるボディワークと瞑想実践、
そして先生の体験をベースに語られる、瞑想にまつわる豊かなお話。
やわらかくも濃密な時間。いつも「あっ」という間に過ぎてしまいます。


以下、前回の教室より帰宅後、速攻でメモ代わりに記した内容。
先生がシェアしてくださったお話の抜粋です。

(メモ)

瞑想は酸素ボンベ。
深い悲しみの最中にいる人に寄り添うには、瞑想が必要。

深い悲しみは、文字通り、深い海の底にいるよう。
悲しみが、心の底にまで到達している。

深い悲しみに見舞われたとき。
息苦しくなる。息が止まる。呼吸ができなくなる感覚。

その状態でうずくまっている人がいるのなら・・・
まず自分が、呼吸できていることに気づく。

息を吸って、吸っていることに気づいている。
息を吐いて、吐いていることに気づいている。

アーナパーナサティ・スッタ。
呼吸の瞑想は、酸素ボンベになってくれる。

酸素が行き届かない(ように見える)、
悲しみの底でうずくまっている人のところまで行ける。

悲しみの底で手をとり、そのまま寄り添ってあげられる。
そうして・・・底から引き上げることができる。

(メモおわり)


こんな光景(イメージ)が、メモから立ち上がってきました。

海面付近で「助けて!」と叫んでいる人に気がついたら、
それがもし岸から近いところであれば、
浮輪などを咄嗟に投げ入れることができる。

海の底に沈んでうずくまっている人は、
助けを求めることができない。海の中から地上へは、声は届かない。

たとえその人の存在に気がついたとしても、浮輪は役に立たない。
地上から大声で投げかけられる「こうしてみたら?」「こうすると浮上できるよ」
という数々のアドバイスもやはりその人の元へは届かないし、
なによりその人のこころに「響かない」。

そんなときは・・・自分の呼吸に気づく。
吸っていることに気づいている、吐いていることに気づいている。
そうして、海の底でうずくまっている人のところへ赴く。

呼吸の瞑想が、いつの間にか「酸素ボンベ」になってくれている。

酸素ボンベになってくれるからといって、
悲しみに暮れるその人の辛さが自分のほうへは来ない、
辛いのはその人であって自分は悲しくないしへっちゃらだ、
ということではない。

むしろ酸素ボンベがあるからこそ、
その他の装備は「まるごし」のまま、行くことができる。

「まるごし」だからこそ、
その人の悲しみや辛さに、ダイレクトに触れることができる。

ダイレクトに「触れさせてもらう」ことができる。

潜水服を着たままでは、その人に直接触れることはできない。
悲しみにくれる人は、悲しみに見舞われたときの無防備な状態のまま
海の底にいるのだから。

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・・・そんな光景(イメージ)が立ち上がってくると、
やはりというか必然といいますか、

ティク・ナット・ハンさんのお姿を思い浮かべずには
いられなかったのでした。


ところで・・・件の瞑想教室は、ほんとうに少人数。
すばらしい「場」なのにどうしてこんなに参加者が少ないのか、
以前から不思議でしょうがなくて。

「ちゃんと見つけてくれる人がいるから(いいんですよ)」

先生はそうおっしゃって、微笑まれるばかりなのでした。