「同じことですがね」
Webで出逢ったblogなどを通じてハッとすることがあれば、その箇所を大抵コピペしてメモっておくタチなのですが、
メモるのを忘れてはしまったものの、忘れようにも忘れられない、今でもハッキリと思い出せる文章がいくつかあります。
そのうちのひとつ。
どのサイトだったかもすっかり失念してしまったのですが、おそらく、とある「雲水さん」の修行回想録だったかと。
その方はもともとご実家がお寺だったのか何だったのか、とにかくご本人の意に反し参禅修行せねばならぬ状況になり、あまり気のすすまぬまま、福井県にある古刹の禅宗専門僧堂へ上山します。
堂頭老師との初接見にて。
どうしてこの寺に来たのか訊ねられた「雲水さん」は、気乗りのしない様子でこう言い放ちます。
「家で炬燵にあたりながらテレビなんかをダラダラ見てるよりは、坐禅でもしたほうがちょっとはいいだろうと思いましてね」
すると堂頭老師はこのように仰います。
「同じことですがね」
この言葉に「雲水さん」がハッと目を覚まし、以降参禅修行に邁進された・・・のかどうかはまったくおぼえていないのですが、
その後長らく、わたしにとって堂頭老師の「同じことですがね」が、心に引っかかりまくる「現成公案」となってくれたのは言うまでもありません。
「家で炬燵にあたりながらテレビをダラ見するのと坐禅が・・・同じ・・・じゃねえよ!だったら坐禅しなくてもテレビ見てればいいんじゃん」
そのような「心の引っかかり」が思い出されるたび、実際に堂頭老師とお目にかかったことのある己の脳内に、あの言葉が「ご老師のナマのお声」で即座に響き返るのでした。
「同じことですがね」
と。
そして今になって心底思うのは・・・
「家で炬燵にあたりながらテレビなんかをダラダラ見てるよりは、坐禅でもしたほうがちょっとはいいだろうと思いましてね」
そう堂頭老師に言い放つことのできる度胸は、わたしにはカケラもない、ということです。
「雲水さん」まじスゲエ。