受け入れる。
明日の仕事のことが頭をよぎり、ちょっと内側がザワザワする。
そんなとき、自分にできることは
ザワザワから離れようとするのでもなく
ザワザワをなくそうとするのでもなく
ザワザワを紛らわせようとするのでもなく
ザワザワに乗っ取られるのでもなく
「ザワザワを受け入れよう」と頭で考えるのでもなく
「ザワザワを受け入れるのよ」と自分に言い聞かせるのでもない。
そもそも「受け入れる」って、どういうことなのだろう?
長年ずうっとそう思い続けてきた。
「受け入れる」ということがどういうことなのかよくわかりもしないのに
「受け入れよう、受け入れよう」としてきていた。
自分で「受け入れている」と思うこと自体、実はずいぶんな「後付け作業」で、
すでにもう「受け入れている」し「受け入れられている」のだなぁ・・・
・・・と、理解できていても、できていなくても
すでにもう「受け入れている」し「受け入れられている」のだなぁ・・・
・・・と、自分で納得したフリをするのでもない。
内側のザワザワがあってはまずい。はじまらない。
そんな思いから、あれこれと対策を練り、実行し、そして失敗してきた。
そりゃもう散々に。
ということは・・・
「内側のザワザワがあってはまずい」という考え自体が、
間違っているのではないか。
「内側のザワザワ」は、こうして現に、ある。存在しているように感じられる。
すなわち「内側のザワザワ」は、ある意味「すでに受け入れられている」。
だからこそ、こうして自在に感じ取ることができているのではないか。
すでに受け入れられているものをなんとかしようとするから
ややこしいことになるのだなぁ。