パートタイムブッダ
ベトナム出身の禅僧ティク・ナット・ハンさん経由で知った言葉
「パートタイムブッダ」。
いきなり「フルタイムブッダ」を目指すのもいいけれど、
まずは「パートタイムブッダ」からはじめてみる。
1日のうち、無理なくできるところから、瞑想に親しんでみる。
「フルタイムブッダ」を目指してしまうと、
ぜんぜんフルタイムじゃない自分のことがイヤになってしまう場合も
多いのではないかと思う。
かといって「パートタイムブッダ」からはじめてみても
「パートタイム」すらできていない自分のことがイヤになってしまう場合も
個人的にはよくありました。
今なら「自分のことがイヤになってしまう」そのこと自体が、
瞑想に最適な材料となってくれるのだとわかりますが、
当時は一切わからず、
果ては「この瞑想メソッド、イマイチなんじゃないか?」
と手法のせいにして別のやり方に手を出す、ということもよくありました。
まさに無明どっぷり。_| ̄|○・゚・
ですが、その奥に横たわっていた
「この苦しみに、適切に対処できるようになりたい」
「適切に対処できるようになる、その方法を知り、実践していきたい」
という思いは、当時も今もおんなじ。
だからでしょうか。
無明どっぷりだったあの頃の自分が、けなげに思えて仕方がありません。
方向音痴なりに一生懸命、目的地を探して彷徨っていたものなぁ。
じゃあ今は「無明どっぷり」じゃないのかと言われると、それは違う。
今でもどっぷりです。光明カモーン!です。
もし以前と違うところがあるとすれば、
「無明どっぷり」であることにチョットは気づけるようになったことでしょうか。
以前はまったく気づいていなかった。そもそも無明の状態が、
自分とはあまり関係のないものだと考えていたのだと思います。
つまり自分が無明の状態にあるという実感がなかった。
まったくピンと来ていなかったのであります。
お酒に激しく酔っている人ほど
「だいじょおーぶ! 酔っぱらってなんかいなーいもおーーん!」
と、おのれの酩酊状態に無自覚になってしまうのと似ているのかもしれません。
そうか。
無明が「酔っぱらい」なのだとすると、
光明は「酔いから醒める」を指すのかもしれません。
酩酊状態を脱するのはうれしいことなのですが・・・
どうか「二日酔い」になりませんように。