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yukiyanagi’s blog

ほとけにハッとしてグゥの音も出ず

瞑想の先生

あるとき目にした一文です。
ご著書を愛読させていただいている魚川祐司さんtweet

 
我が身を振り返ってみると、
「瞑想あるいは坐禅の手ほどきをぜひお願いしたい」
と素直に感じ、実際に継続してお世話になった先生方を思い浮かべるにつけ、

魚川さんのおっしゃる
「(瞑想を教えている先生を見て)自分はこういうふうになりたいのか」
という問いかけを「おのずと」行っていたことにあらためて気づかされます。

「この方にぜひお願いしたい」の前段階、
「お願いしたいかも」と感じた時点で、もし可能であれば
その方に実際に会いに行ってみるのが自分にとっての常。

何度か足を運ぶうちに「なにかが違う」と感じれば、
自然と足が遠のいてしまうこともあります。

「なにかが違う」と感じる主な要因は、
メソッドの内容が自分に合う合わないということではなく
非常に個人的な「センサー」が感じ取る、
その方の佇まいから滲み出る「この世界に対する慈しみのようなもの」のあるなし
なのかもしれません。

その方から発せられる言葉がたとえ厳しいものであっても、
「慈しみ」って消えないものだもの。
その逆もある。言葉がどんなに優しい類のものであっても、
「慈しみ」が感じられないことだってある。

そうした参照点が果たして正しいのかそうではないのかは
自分でもわかりかねますし(そもそもあくまで個人的なセンサーなんだし)、
たとえどんな状況であっても「慈しみ」を湛えられる人になりたいという
自分自身の無茶な願望がそう思わせているだけなのかもしれない。

それでもやっぱり、(そんなに多くはないけれど)
これまでお世話になった&今現在お世話になっている先生のことを
思い浮かべるだけで、なにやら満たされた気持ちになるのです。
「その先生にお願いしている理由」って、
(わたし個人に関して言えば)実はこれだけで充分なのかも。

今現在「実際に」お目にかかりながらご指導いただいている先生はおふたり。

おひとりは、タイで出家された日本人僧侶プラユキ・ナラテボーさん。
先日も個人面談で「苦(四聖諦)」についてガッツリご指導いただきました。
(現在来日されています!)


そしてもうおひとりは、このblog でも何度か書かせていただいている
瞑想教室の先生。ベトナム出身の禅僧ティク・ナット・ハンさんと
とてもご縁の深い、宮下直樹さんです。


(先生に掲載をご快諾いただきましたので遠慮なく)
宮下先生の瞑想教室はこちらです。もちろんわたしも毎回必ず参加しています。
教室の先輩方も、どこまでも穏やかであったかい。
どんなに仕事が忙しくても行くのであります。行きたくなるのであります。


現役の神主さんであり、禅修行者であり、野口体操の先生であり、
テーラワーダ仏教の瞑想実践を現地の僧院で深められ、
ティク・ナット・ハンさんによって設立されたリトリートセンター
「プラムヴィレッジ」関連の活動においても
重要な役割を何度も担われている宮下先生のお話と瞑想指導は、

幾多の「枠組み」を自在に行き来されているお立場ならではの
「目が覚めるような視点」を毎回とても自然な形でもたらしてくれます。

教室の会場が「カトリック教会の集会所」というのも
なんとも宮下先生っぽいのであります。

【教室会場の敷地内にて。夜桜と聖母子像】f:id:lovebuddha:20160412014346j:plain


ちなみに、プラユキ・ナラテボーさんとの出逢いを
お膳立てしてくださったのも宮下先生なのです。


プラユキさんも宮下先生も・・・おふたりとも笑顔がほんとうに「大きい」。
「芸能人は歯が命」みたいなニッカニカした笑顔ではなくて、
酸いも甘いも苦しみも悲しみも痛みも味わい尽くしている方だからこその、
慈しみにあふれる笑顔。

笑顔というよりは「ほほえみ」のほうがしっくりくるかもしれない。
「そういう人に、わたしもなりたい」
と、おふたりとご一緒させていただくたびに思うのであります。

といいつつ。
プラユキさんとはまだ、たった3回しかお目にかかっていないのです。
あ、宮下先生ともまだ半年のおつきあいだった・・・。

お世話になっていた禅のご老師が病に倒れられて以来数年間、
「この方にぜひ!」と心底思える先生に出逢えなかった分、
ここへ来て確変のごとく、よきご縁に恵まれているのかもしれません。

ああどうか、
このまま確変が終わりませんように。←「苦」にハマる典型的な例である。